テンポと棒読みの壁|わたしが邦画から遠ざかった理由

話題作が必ずしも自分も面白いとは感じられないってこと、
あるんだよなぁ

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期待して開いた、続きの物語

話題になっていた作品の、待望のシーズン2が配信されると知り、楽しみにしながら再生ボタンを押した。

前作の壮大な設定や、予測のつかない展開を思い出しながら、今回もきっと、同じような熱量で楽しめるはずだと期待していた。

けれど数話を見進めるうちに、その期待は、少しずつ違う方向へと傾いていった。

面白くないわけではない。

けれど、何かが引っかかる。

その正体を探りながら、画面を見つめ続けることになった。

引っかかりの正体は、テンポにあった

一番大きな違和感は、テンポの部分にあった。

物語がここぞという場面に向かっているはずなのに、その手前で、妙に間延びした空気が挟まってくる。

同じような映像のカットが、繰り返し使われる場面もあった。

一度見せた情景を、また同じ角度で見せられると、そこで一瞬、集中の糸が途切れてしまう。

海外の作品を見慣れてしまったからだろうか。

テンポよく畳みかけるように進んでいく展開に慣れた身体には、この間延びした感覚が、想像以上に大きなストレスとして響いてくる。

中弛みという言葉が、まさにぴったりと当てはまる感覚だった。

壮大な設定と、足元の演技

物語のスケール自体は、決して小さくない。

ハリウッド作品にも引けを取らないような、壮大な世界観が広げられている。

だからこそ、余計に気になってしまう部分があった。

一部の場面で感じられる、演技の硬さだ。

セリフの言い回しが、どこか教科書を読み上げているような響きに聞こえてしまう瞬間がある。

物語のスケールが大きければ大きいほど、その中で交わされる言葉に、もっと血の通った実感を求めてしまう。

けれど、その実感が薄れる瞬間に出会うたびに、せっかく積み上げられてきた没入感が、すっと冷めていくような

壮大な舞台装置と、足元の演技の温度差。

そのギャップが、視聴を続ける中で、次第に気になり始めていた。

慣れてしまった、という現実

正直に言えば、この作品そのものだけの問題ではないのかもしれない。

これまで、海外のドラマや映画に触れる機会が増え、そのクオリティの高さに、知らず知らずのうちに慣れてしまっていた。

緻密に練られたテンポ、俳優たちの自然な演技。

そうした基準が、いつの間にか自分の中に染み付いてしまっている。

その基準を通して見てしまうと、これまでなら気にならなかった些細な違和感すら、はっきりと輪郭を持って見えてしまうようになった。

これは、作品の質が落ちたという話ではなく、自分自身の感性が、少しずつ変化してきたということなのだと思う。

見過ごせなくなった、という成熟

以前のわたしなら、多少のテンポの緩さや、演技の硬さがあっても、物語の勢いに乗って、気にせず楽しめていたかもしれない。

けれど今は、その小さな違和感一つひとつが、没入感を静かに削っていくのを、はっきりと感じ取ってしまう。

これを、感性が贅沢になったと呼ぶべきなのか、それとも、単に厳しくなっただけなのか。

ただ単におじさんになったということだけなのかもしれないけどね

けれど一つ言えるのは、この違和感を、見て見ぬふりできなくなったということだ。

かつては流せていたものを、流せなくなった。

それもまた、年齢と共に変化していく、感性の一つの形なのかもしれないね

それでも、物語を追い続けたい

この作品を、途中で見るのをやめるかどうかは、まだ迷っている。

けれど、こうして違和感の正体を言葉にしてみることで、自分の感性がどこに向かっているのかを、あらためて確認できたような気がする。

テンポの良さを求める自分。

血の通った演技に、深く没入したい自分。

そうした好みの輪郭が、以前よりもずっとはっきりと見えるようになってきた。

これからも、様々な物語に触れながら、自分の中の「好き」と「違和感」を、丁寧に見極めていきたいと思う。

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