成功者の言葉が届かなくなる時。オードリーANNと「共感の境界線」

オードリーのオールナイトニッポンを、長い間聴いてきた。

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ずっと聴いてきた番組

毎回、爆笑のスタジオ

深夜に布団の中でイヤホンを差して、二人の話に耳を傾ける時間が好きだった。

笑える回も、しみじみとした回も、どちらも良かった。

番組を聴き続けているリスナーは多いけれど、わたしにとってもそれは「長く続いている習慣」の一つだった。

でも最近、聴きながら少し引っかかることが増えた。

あの番組に、何を求めていたか

むつみ荘からの放送

振り返ると、何が好きだったかというと、二人の「世間への恨み節」だったと思う。

売れない時期があって、認められない時間があって、それでもお笑いを続けてきた。

その蓄積から出てくる言葉には、傷の匂いがあった。
「うまくいっていない人間」のリアルが、笑いの形をとって届いてきた。だから刺さった。

今の二人は、成功している。幸せな家庭を持ち、知名度も財力も手に入れた。それは本当に良かったと思う。

あれだけ頑張ってきた二人が報われたことは、素直に嬉しい。

でも、言葉の届き方が変わった。

番組を聴きながら「この人たちは今、わたしの届かない場所にいるんだな」と思う瞬間がある。それは批判ではない。

ただ、距離が生まれた、という事実の確認だ。人は変わる。状況が変わると、持っている言葉も変わる。

それを寂しいと思うことも、また正直な感情だ。

かつて刺さっていた言葉が届かなくなること。それはある意味で、自分自身も変わっているということかもしれない。

苦しかった頃に支えになったものが、状況が変わると届き方が変わる。

人も、コンテンツも、永遠に同じ場所には留まれない。それが少し寂しくて、でも自然なことだと思っている。

変わっていくものを静かに見送りながら、次の共感の居場所を探す。

その繰り返しが、これからもずっと続くのだと思う。

成功者の言葉が届かなくなる時

小説「青天」が直木賞候補作品に

成功者が「苦しかった頃の話」をするとき、それはすでに回顧録だ。

当事者として苦しんでいる時の言葉と、乗り越えた後に振り返る言葉は、同じことを言っていても質感が違う。

苦しんでいる人間は、苦しんでいる当事者の言葉が一番届く。

成功者の「あの頃は大変だった」という言葉は、どれだけ誠実であっても、当事者の言葉の代わりにはなれない。

さらに言えば、成功を手に入れた後の言葉には、無意識のうちにビジネス的な配慮が入ることがある。

炎上を避ける判断、スポンサーへの配慮、上からの目線。

それが悪いのではなく、それが「大人になった」ということなのかもしれない。

でも、そういった要素が透けて見え始めると、かつての無防備な言葉の感触が恋しくなる。

次の「共感の居場所」はどこか

オードリーのオールナイトニッポンは青春だった

相手が変わったのではなく、自分自身も変わった。それは当然の変化だ。

問題は、届かなくなった時にどこへ向かうか、だ。

答えはまだない。でも、探し続けることが必要だと思っている。

お金や知名度に関係なく、今まさに苦しんでいる誰かの言葉。磨かれていない、でも本物の熱を持った声。

そういうものを求めて、また少しずつ探していく。

ひっそりとした個人サイトや、無名のポッドキャストの中に、まだそういう声はあると思っている。

ラジオという媒体の面白さは、パーソナリティが変わっていくことも、番組の一部だということかもしれない。

長く続けていれば、人は変わる。変わった人の言葉が届かなくなる人もいれば、変わっていく様子そのものを楽しむ人もいる。どちらが正しいわけでもない。

ただ、届かなくなった時、正直にそれを認めることが、自分の感性に誠実でいることだと思う。

次の「共感できる声」を探す旅は、きっとこれからも続く。

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