「共感ストライクゾーン」のズレ。10年聴いたラジオが、遠くなった理由

深夜ラジオを聴くようになったのは、いつ頃だっただろう。

目次

10年以上、聴き続けてきた

気がついたら10年以上、同じ番組のファンだった。

仕事帰りの電車の中で、眠れない夜の布団の中で、家事をしながら。
その番組の言葉が、日常のあちこちに入り込んでいた。

好きなパーソナリティの話し方のリズムが耳に馴染んで、笑いのツボも分かってきて、リスナーとしての歴史が積み重なっていった。

でも、ここ2〜3年で、何かが少しずつ変わってきた。

「ズレ」に気づいた日

面白くないわけではない。つまらくなったわけでもない。

でも、かつてほど刺さらない。かつてほど笑えない。

かつてほど「そうそう、それだよ」と思えない。

その微妙な変化を、しばらくうまく言語化できなかった。
番組が悪くなったのか、自分の感性が鈍ったのか、疲れているだけなのか。

しばらく考えて、気がついた。
「共感ストライクゾーン」がずれたのだ、と。

自分が心を動かされる言葉の範囲が変わった。以前は届いていたものが、今の自分には少し外れた場所に来ている。

それはバットの軌道が変わったようなもので、球が悪いのではなく、自分の構えが変わっている。

自分が変わったということは、成長でも退化でもなく、ただ変化だ。
以前の自分と今の自分は、同じ人間でも違う状態にある。

そのことを認めることが、感性に正直でいるということだと思う。

このことに気づくのに、少し時間がかかった。最初は「なぜ笑えなくなったのか」と自分を責めていた。
感性が鈍ったのか、疲れているせいか、と。でも原因は責めることではなく、ただ変化を観察することにある。

そう気づいてから、少し楽になった。

成功者の言葉が届かなくなる、という現象

オードリーのオールナイトニッポンを例に出すと分かりやすいかもしれない。

売れない時期を長く過ごした二人の言葉には、かつて傷の匂いがあった。

「世間を見返してやる」という燃料で動いているような、ぎりぎりの熱があった。
その熱が、同じように報われない何かを抱えているリスナーに届いていた。

今の二人は、成功している。幸せな家庭があって、財力も知名度も手に入れた。それは本当に良かったと思う。

でも、その立場から語られる言葉は、当事者の言葉ではなく、成功者の回顧録になっていく。

どれだけ誠実でも、苦しんでいる渦中の言葉とは質感が違う。

遠くなったこと

遠くなった番組を批判したいわけではない。

相手が変わったのではなく、自分も変わった。
どちらかが悪いのではなく、二つの変化の方向がすれ違っただけだ。それは自然なことだと思う。

大切なのは、届かなくなった事実を正直に認めることだ。
「面白いと思わなければいけない」という義務感で聴き続けることは、自分の感性に不誠実だ。
遠くなったと感じたら、そのまま受け取る。

そして次の「共感の場所」を、静かに探し始める。

10年の付き合いに感謝しながら、少し距離を置く。それでいいと思っている。

共感の居場所は、一つである必要がない。いくつかの場所が、時期によって入れ替わっていく。
長く続いた番組との距離が生まれたとき、それは失うことではなく、次の場所を探し始めるサインだ。

その切り替えを恐れないことが、感性を長持ちさせるコツだと最近は思っている。

10年聴き続けた記憶は、ちゃんとある。
笑った夜も、なんとなく元気になった朝も、全部本物だった。
距離ができた今も、その事実は変わらない。

感謝を持ちながら、静かに、ゆっくりと離れていく。

それが大人になってからの、一つのやさしくて誠実な別れ方なのかも。

目次