映像に求める「温度感」。日本映画の予定調和を離れて

日本アカデミー賞を受賞したという話題作だった。

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1時間で、止めた

評価が高く、各所で絶賛されている作品を手に取るとき、少し身構える自分がいる。

評価の高さと自分の好みは、必ずしも一致しない。それは過去に何度も経験してきた。

それでも、受賞作であるという事実は、「試してみる」動機としては十分だった。

観始めて15分ほどで、最初の違和感が来た。

映像の色調が暗く、カメラワークが固かった。

悪いわけではないけれど、何かに引っかかった。

好みの問題かもしれないと思いながら、しばらく続けた。

暴力シーンの、長さ

暴力シーンがあった。

物語の文脈として、それが必要な場面であることはわかる。

主人公が極限まで追い詰められる描写として、意図は理解できる。

でも、長かった。

映像として何分も続く暴力の描写が、途中からノイズに変わっていった。

暴力表現が作品の中で機能するとき、それは物語の必然と密着している。

見る側に何かを理解させるための、あるいは感情を動かすための手段として機能する。

でもこの場面は、そのバランスを少し超えていた気がした。

「見せるための暴力」になっていた、という感触が残った。

予定調和という、霧

それよりも気になったのは、物語全体に漂う予定調和の空気だった。

次のシーンが、おおよそ読めてしまう。登場人物の言動が、展開のレールに沿って動いている。

それ自体は必ずしも悪いことではない。

物語には定型があり、その定型をいかに豊かに肉付けするかが腕の見せどころでもある。

でもこの作品では、その肉付けの部分が薄く感じられた。

登場人物の心の動きが、表情や言葉で説明されすぎている気もした。

観客を信頼して、少し余白を持たせてくれれば、もっと深く入っていけたかもしれない。

1時間ほど見てから、止めた。

最後まで観ることへの義務感は、エンタメにはいらないと思っている。

日本映画に感じるもの

これは個人的な感想だということを前提に書くけれど、日本の映像作品には保守的な演出が多いと感じることがある。

カメラのアングルや編集のテンポが、ある型に収まっていることが多い。

海外作品、特にアメリカやヨーロッパの作品と見比べると、そのことが際立って感じられる。

もちろん日本にも優れた作品はある。

でも「賞を取った作品」が持つ演出の傾向が、自分の感性とずれていることは少なくない。

作品の優劣を語りたいのではない。

ただ、自分が映像に求めているものが何かを、この作品を通じてあらためて確認できた。

予定調和ではない展開。演出の意外性。そして、暴力や感情の描写が物語と密着しているかどうか。

それが、わたしの「温度感」の基準なのだと思う。

好みは人それぞれで、この作品を良いと感じる人もたくさんいる。

賞を取ったという事実は、その評価を受けた人たちが確かにいるということだ。

ただわたしには合わなかった、それだけのことだ。

自分の感性に正直でいることが、エンタメを楽しむための基本だと思っている。

「賞を取った作品だから観るべき」という義務感を手放してから、エンタメとの付き合いがずいぶん楽になった。

評価されているものが自分に合うかどうかは別の話だ。合わなければ止める。

合うものを探し続ける。その選択の自由が、鑑賞体験を豊かにする。

1時間で離脱したことを、惜しいとは思わない。その時間で、もっと自分に合うものを探せばいい。

映像との出会いは、数を重ねるほど好みが明確になる。

合わなかった作品も、「自分はいったい何が一番好きなのか」をより鮮明に教えてくれるという意味では、けっして無駄ではないとわたしは思っている。

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