
わたしが運営しているポッドキャストには、少しだけ変わった構成をしている
「本編」と「アフタートーク」
1つの番組なのに、少しだけ雰囲気が違う構成にしています
ポッドキャストも3年以上やってると、こんな変なことをしたくなってくるんですよね
「本編」と「アフタートーク」という、ふたつの部屋。
家の中に、ふたつの部屋があるとする。
ひとつは、来客を迎えるための、整えられた部屋。
もうひとつは、誰にも見せない、散らかっていてもいい自分だけの部屋。
わたしが運営しているポッドキャストも、どこかそれに似た構造を持っている。
「本編」と「アフタートーク」という、ふたつの部屋。
整えられた声と、素のままの声
本編では、伝えたいことを、ある程度筋道立てて話す。
構成を意識し、聴いてくれる人にとって分かりやすい流れを心がける。
そこには、来客をもてなすような、丁寧さがある。
一方でアフタートークは、もう少し力の抜けた場所だ。
本編で言い切れなかった余談や、ふと浮かんだ雑感を、あまり整えないまま口にする。
同じ声でありながら、そこには明らかに違う体温がある。
一貫性という呪縛から外れたい

「人前ではこうあるべき」という一貫性は、時に自分を縛る呪縛になる。
見せる自分と、本当の自分との間に隙間ができると、その隙間を埋めようとして、余計な力が入ってしまう。
けれど、ふたつの軸を最初から用意しておけば、その隙間そのものが、正当な居場所になる。
本編の自分も、アフタートークの自分も、どちらも本物の自分だ。
多面的であることは、矛盾ではなく、むしろ豊かさなのだと思えるようになった。
気楽さという、贈り物
このふたつの部屋を持つようになってから、生活全体が少し軽くなった気がする。
一貫していなければならないというプレッシャーから、少しだけ解放されたからだと思う。
人に見せる顔があってもいい。
自分だけの内面があってもいい。
そのどちらも否定せず、それぞれに適した時間軸の中に置いておく。
そうすることで、無理に統合しようとする疲れから、自由になれる。
境界線が曖昧でも

本編とアフタートークの間には、微妙な境界線がある。
きっちりと喋りたい自分と、緩く気ままに喋りたい自分。
どちらも喋りたいことを喋っているんだけど、少しだけテイストを変えてみる。
まるで2つの番組を運営しているような不思議な感覚。
社会生活でも、職場での自分と、家での自分と、
不思議なことに自然に使い分けているけど、どちらも自分らしいと言えば自分らしい
当サイトのコンセプトでもある「境界線」とも少しだけ被るようなコンセプトにしたかった。
これからも、この二軸の心地よさを大切にしていきたい。
多面的な自分を、もっと気楽に肯定しながら。


