
ジャーナリングって毎日続かないんだよなぁ。。。
なかなか、毎日の習慣化って難しいもんなのよね
「毎日書く」が、ノイズになっていた

パソコンでジャーナリングを書く習慣を作ろうとしていた。
毎朝、Googleドライブのメモを開いて、今日あったことや感じたことを書く。
それを1日のルーティンに組み込もうとしていた。
ジャーナリングが思考の整理になると聞いていたし、このアトリエの記事の元ネタにもなる。
理にかなっているはずなのだけど。
でも続かないのである(え)。
書けない日が出てきた。書こうとしてパソコンを開くけれど、特に書くことが浮かばなくて、結局閉じる。
翌日も同じ。
そのうち「今日も書けなかった」というちょっとした罪悪感が生まれ始めた。
罪悪感があると、次の日は余計に書きにくくなる。うまく書けないかもしれないという緊張感が生まれるから。
そのうち「どうせ続かない」という気持ちが出てきて、メモを開くこと自体が億劫になった。
良かれと思って取り入れた習慣が、ノイズになる。

「書けなかった日」が教えてくれたこと
しばらく経って、気がついたことがある。
書けなかった日のことを振り返ると、たいてい「特に何も感じていなかった日」だったというね。
平穏で、淡々としていて、書き記したいことが何もなかった。それってなんだか良い日だったってことなのでは?
そういう日もあっていいよね。
なのに「書かなければいけない」という義務感の中にいると、何もない日が「失敗した日」のように見えてしまう。
なんだかそれってちょっと違う気がする。
書くことは、感じることがあるからできる。感じることがあるのは、日々の中に何かが動いているからだ。
だとすれば、書けない日があること自体は、何も問題ではない。
「毎日書く」ことが目的にしていくと、やっぱりなんだかズレてきてしまうもんなんだよな。
(個人サイトでも過去に毎日更新に縛られて苦しんでいたけど、同じ感じがする)
「書きたい」という気持ちだけを信じる

やり方を変えることにした。
「毎日書く」をやめた。代わりに、モヤモヤしているとき、頭の中を整理したいとき、書きたいと感じた瞬間だけ書く。
それだけのルールにした。
変えてみると、不思議なことが起きた。書く頻度は、それほど変わらなかった。
でも「書けなかった日」に感じていた罪悪感が薄らいだ気がする。
義務から解放されたことで、書くときの言葉が素直になった気がした。
「今日も書けた」ではなく、「書きたかったから書いた」という状態。
その違いは小さいようで、書いた後の手応えが全然違う。
義務を果たした達成感より、衝動を形にした充足感の方が、ずっと豊かだ。
どんなに良い習慣と言われるものでも、「やりたい」という純粋な気持ちが伴わなければ、自分にとってはノイズになり得る。それがジャーナリングで改めて分かった。

毎日書く人を、尊敬する

毎日ブログを書いている人、毎日日記をつけている人を、心から尊敬する。
それがどれほど難しいことか、やってみて初めてよく分かった。
毎日書き続けることは、才能の話ではなく、仕組みと意志と、何より「書きたい気持ちの持続」の話だ。
その三つを長期間維持できる人は、普通にすごい。
わたしには、それを100%で継続することは難しい。
それだけのこと。
このアトリエは、義務のない場所でいたいし。更新が止まる日があってもいいとも追ってる。
書きたいことがあるから書く、という状態を、できる限り守っていきたい。
心の波に合わせて、言葉を置いていく場所。
そのためのアトリエだから。
毎日書くことの大変さを知っているから、書けた日のことを、以前より少し大切に思えるようになった。
お、じぶんやるじゃん!
って心の中でガッツポーズしちゃう感じでさ
書きたいと思った日に、素直に書く。書けなかった日に、罪悪感を持たない。
それだけのことが、長く続けるためには大切なのだと、今は静かにそう思っている。
このアトリエが、その場所であり続けていたいもんだ。


