「誰も読まない日」があってもいい。ブログ継続の、静かな哲学

ブログを始めたばかりの頃、アクセス解析が気になってしかたなかった。

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アクセス解析という、残酷な鏡

更新するたびに確認して、数字が増えていなければがっかりして、増えていれば少し元気になって。

その繰り返しの中で、書くことの目的が「誰かに読んでもらうこと」にすり替わっていく瞬間があった。

でもそのモードで書いていると、どこかで言葉がうわついてくる。読んでもらうために書いた記事は、薄い。

自分のために書いた記事は、どこか違う密度を持っている。

それはアクセス数とは関係なく、書いた本人が一番わかる。

雑記ブログを書いている人なら、この感覚はきっと分かってもらえると思う。

数字と向き合うことは必要だけれど、数字のために書くと、何かが失われる。

その境界線を、意識しながら書き続けている。

数字に振り回されそうになったとき、「これは誰のために書いているか」と自分に問い直す。

それだけで、書いている言葉が少しずつ、本来の場所に戻ってくる。

ゼロの日に、何があるか

アクセスがほぼゼロの日が続くことがある。

特に更新直後ではなく、しばらく経った記事は検索エンジンに拾われるまで時間がかかる。

その間、記事は静かにインターネットのどこかに存在しているけれど、誰の目にも触れていない状態が続く。

そのことを「誰も来ていない日」と捉えると、寂しくなる。

でも別の見方をすれば、「まだ見つかっていない日」だとも言える。

書いた言葉は、書いた瞬間だけのものではない。

今日誰も読まなくても、半年後に誰かが検索して偶然辿り着くかもしれない。

その可能性は、記事が存在し続ける限り消えない。

それはブログという媒体の特性でもある。

SNSの投稿は流れていくけれど、ブログの記事はURLが変わらない限り残り続ける。

書いた瞬間から、時間の波に晒されながら、でもそこに在り続ける。

その「在り続けること」に、ブログを書くことの意味の半分がある気がする。

「在席日」が積み重なること

ブログを続けることを、学校の出席日数に喩えることがある。

更新した日が「在席日」で、更新しない日が「欠席日」というわけではない。

読まれない日も、アクセスがゼロの日も、記事が存在し続けている限り「在席日」だとわたしは思っている。

書いたことは消えない。

残り続ける。それだけで、続けている意味がある。

更新頻度や読者数という外側の数字より、積み重なった記事の数の方が、ブログの実質を表している気がする。

100記事書いた人のブログと、10記事のブログでは、たとえ読者数が同じでも、そこに宿っているものが違う。

書いた記事が積み重なると、そのブログ全体が一つの人格みたいになっていく。

どんなことを気にして、どんなことを好きで、どんなふうに世界を見ている人なのかが、記事の集積から浮かび上がってくる。

それは一記事だけでは作れないものだ。

数字の外に、あるもの

アクセスを確認することをやめたわけではない。

でも、数字に一喜一憂しなくなった。読まれた日は嬉しい。

でも読まれない日も、書いた言葉はそこにある。それで十分だ。

雑記ブログを書いている人たちは、多かれ少なかれ、この感覚を知っていると思う。

数字より先に、書き続けた記録が残る。その積み重ねが、ブログという場所を自分の居場所にしていく。

誰も読まない日があってもいい。

わたしは今日も、ここにいる。

そして、誰かが読んでいる日には、その「誰か」が確かにいる。

アクセスがゼロではない日に、その一人がいる。

雑記ブログという場所は、数字では見えにくいけれど、確かな繋がりの上に成り立っている。

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