30年越しのロトの伝説:終わらせることで始まること

エンディングを見たとき、泣くかと思っていた。

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やり忘れていた宿題みたいな

でも実際には、静かに画面を眺めていた。

スタッフロールが流れ、音楽が鳴り、それが終わって、コントローラーを置いた。

部屋は暗くて、窓の外はもう深夜の気配だった。
しばらく、そのままでいた。

ドラゴンクエスト3。
小学生のころ、途中でやめてしまったゲームだ。

父のソフトを借りていたか、自分のものだったか、もうよく覚えていない。

ただ、ある日突然セーブデータが消えて、またある日は攻略に詰まって、そのまま棚の奥にしまわれた。

「終わらせていない」という感覚だけが、記憶の隅に小さな棘のように残り続けた。

大人になって思い出すたびに、宿題を忘れたまま卒業したような、うすら寒い感覚があった。

30年越しで、終わらせた。

最初は軽い気持ちで始めた。懐かしさと、子供の頃に積み残したものを片付けるような気分と。

序盤は記憶のかけらが甦ってきて、「ここで詰まったな」とか「このBGMが怖かった」とか、そういう感覚がぽつぽつと返ってきた。

でも物語が進むにつれて、かつての記憶をとっくに超えた領域に入り、わたしは純粋に、この物語の続きを知らなかった。

そこで初めて、大人として、このゲームと向き合った。

主人公は自分の名前を持たない。

勇者の息子として旅に出て、仲間を集め、世界を巡り、最後にその名を歴史に刻む。

父の影を追いながら、父とは別の物語を生きる。

そしてある時点で、自分が「始まりの勇者」であったことを知る。

始まりと終わりが、時間を超えて繋がっている。

子供のころにはわからなかった、その重さが今はすこし分かる気がした。

誰かの後を継ぐことと、自分の道を切り拓くことが、同じことであるかもしれないという感覚。

親の物語が、自分の物語の土台になっているという感覚。

それはゲームの話であると同時に、この歳になってみて初めて腑に落ちる、人生の話でもある。

あの頃のわたしには受け取れなかったものを、今のわたしが静かに受け取った。

古い宿題を一つ終えたような清々しさ、と言えばいいだろうか。

ずっと心の片隅を占領していたものが、穏やかに解放されて、そこに新しい余白が生まれた。

その余白が、心地よかった。

終わらせることで始まることがある。

完結させることで、その物語が初めて自分の中に根を張る。
終わったのに、何かが始まった気がした。

次は何の物語を、その余白に迎えようかと、すこし楽しみにしている。

昔の自分が途中で置いてきたものを、今の自分が引き継いで完成させる。

そういうことがこれからも少しずつできるといい、と思っている。

過去のわたしと今のわたしが、同じ物語を通じて、静かに握手をした夜だった。

未完のままにしているものが、まだいくつかある。

本棚の奥の文庫本、途中で止まった語学の教材、下書きのままのブログ記事。

それらを終わらせることが義務だとは思わない。でも、終わらせたいと思うものは、終わらせた方がいい。

そのたびに、小さな余白が生まれ、新しいものが入ってくる余地ができる。

積み残しを一つずつ、静かに片付けていく。
それも、暮らしの丁寧さの一部だと今は思っている。

コントローラーを置いてから、しばらくエンディングの音楽の余韻の中にいた。

ゲームの話をこんなに真剣にするのは大人げないかもしれない。

でも物語というのは、年齢に関係なく人の内側に届くものだと思う。

30年前の自分に、「ちゃんと終わらせたよ」と伝えてあげたい気持ちがあった。

画面が暗くなり、部屋に静寂が戻ってきた。
終わった、という感覚と、始まる、という予感が、同時にそこにあった。

積み残したものを一つ終わらせるたびに、人は少しだけ身軽になれる。
その軽さを、しばらく味わっていた。

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