「ラジオVlog」という、自分らしい境界線の引き方

しばらくの間、動画制作の沼にはまっていた。

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じぶんらしい動画のつくりかた

サムネイルの構図、編集ソフトの操作、BGMの権利確認、テロップのフォントと色。顔出しするかしないか。

カメラはどれを使うか。

ショート動画にすべきか、長尺にすべきか。

毎日誰かの「動画の始め方」や「チャンネル登録者を増やす方法」を読んでいた。

情報が増えるたびに「正解」も増えていって、肝心の「何を伝えたいか」だけが、いつまでもぼんやりとしていた。

気がつくと、表現したいものよりも、「うまく見せる技術」のことばかり考えていた。

それはそれで学びではあった。

知識は確かに増えた。
編集ソフトの基本的な使い方はわかったし、サムネイルのデザインについても以前よりは考えられるようになった。

でも机の前に座るたびに、どこかで息が詰まる感覚があった。

うまくやらなければ、という緊張が、表現の扉の前に陣取っていた。

楽しいはずの創作が、いつの間にか試験のようになっていた。

そんな頃、ある日なんとなくマイクだけつないで録音してみた。

カメラは向けなかった。画面には何も映らない。

ただわたしの声と、窓の外からかすかに入ってくる街の音と、たまに鳴る鳥の声だけ。

話す内容を事前に決めず、その日考えていたことをそのまま喋った。

途中で言い淀んで、少し笑って、また話した。

うまくまとめようとしなかった。

ただ声を出すことだけをした。

聴き返したとき、妙に落ち着いた気持ちになった。

「これでいい」ではなく、「これがいい」と思った。その違いは小さいようで、大きい。
前者は妥協で、後者は選択だ。

ラジオVlogというものがあると、後から知った。

顔を映さず、声と音と、日常のほんのすこしのカットだけで構成されるスタイル。

それをわたしは自分で発明したつもりだったのだが、世界はもうとっくにそこへ辿り着いていた。

それがすこし可笑しくて、でも同時に、同じ感覚を持つ人がいると知ってほっとした。

表現の型というのは、外側から与えられるものではないのだと思う。

トレンドを参照することは悪くない。うまい人の手法を学ぶことも、必要なステップだ。

でも最終的に自分が選ぶ「型」は、どんな状態のときに自分が一番息をしやすいか、という問いの答えから生まれる。

声だけで話す。カメラを向けない。編集に時間をかけない。
細かな技術よりも、話したいことを話す。

そのシンプルな条件が揃ったとき、わたしは初めてリラックスして表現できる気がした。

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じぶんらしさと世間の流行りとの境界線

世間の流行に合わせることと、自分らしく表現することの間に、境界線を引く。

それは拒絶ではない。
むしろ、自分の中心を知っているからこそ、外の世界とどう関わるかを選べる。

遠回りだったか、と問われれば、そうだと思う。

でも、あの沼の時間がなければ、この静かな着地点には辿り着けなかった。

試行錯誤の中でこそ、「自分には向いていないこと」がわかる。

向いていないことがわかることは、向いていることへの地図になる。

贅沢な遠回りだった。
そう呼べるくらいには、あの迷子の時間を愛しく思っている。

あのとき沼にはまらなければ、マイクだけで録音してみようとも思わなかったかもしれない。

遠回りは、目的地への最短経路ではないけれど、道中で拾えるものがある。

自分の輪郭が、その遠回りの中でゆっくりと浮かび上がってくる。

表現の場所を持つということは、自分の声を持つということだ。

その声は、整っていなくていい。上手くなくていい。

ただ、自分のものであればいい。

そのことに気づくまでに、わたしにはすこし時間が要った。
でも今はそれで良かったと思っている。

自分らしい表現の型を見つけることは、自分という人間の輪郭を知ることに似ている。

何が心地よくて、何が窮屈か。どんなとき声が自然に出て、どんなとき言葉が詰まるか。

その問いに、正面から向き合う時間が、あの試行錯誤の中にあった。答えは外にはなかった。

内側を、丁寧に探すしかなかった。

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