
白和えを本気で作ってみた。
前回の失敗を、思い出しながら
豆腐をボウルに移し、ゆっくりと水切りを始める。
その手つきに、少しだけ緊張が混じっていた。
前回、白和えを作ったときのことを、まだ覚えている。
味は悪くなかったはずなのに、どこか物足りない仕上がりになってしまった。
舌触りが粗かったのか、味の染み込み方が甘かったのか。
原因ははっきりとはわからないけれど、あの日の小さな悔しさが、もっと美味しくなるのでは?と引っかかるものがずっとあった。
今度こそ、丁寧に作りたい。
そんな思いを胸に、キッチンに立つ。

裏漉しという、遠回りな作業

水切りを終えた豆腐を、今回は裏漉しにかけることにした。
木べらを使って、少しずつ、少しずつ、豆腐を漉し器に押し付けていく。
驚くほど時間がかかる作業だ。
フードプロセッサーを使えば、あっという間に済んでしまうのかもしれない。
けれどあえて、この手作業を選ぶ。
漉し器の網目を通り抜けていく豆腐は、まるで雪のように細かく、なめらかになっていく。
その変化を目で追いながら、ふと思う。
効率だけを求めるなら、この工程はきっと省略の対象になるだろう。
けれど、この遠回りな時間の中でしか生まれない滑らかさがある。
味付けを整え、丁寧に仕込んでおいた野菜と和える。
前回よりも格段になめらかになった白和えが、ようやく完成した。
一口食べてみると、舌の上で豆腐がすっと溶けていくような感覚があった。
これが、裏漉しという手間暇の答えなのだと、静かに納得した。

ミルフィーユ鍋という、無心の時間

白和えを仕上げたあと、もう一つの料理にも取りかかることにした。
夏の暑い盛りに、あえての鍋料理。(え)
豚肉と白菜を、交互に重ねてはギチギチに詰め込んでいく。
ただそれだけの、いたってシンプルな作業だ。
けれどこの単純な繰り返しが、不思議と心地よい。
一枚、また一枚と重ねていくうちに、頭の中の雑多な考えごとが、少しずつ静まっていくのを感じる。
これは、料理と呼べるものなのだろうか。
そんな自問自答が、ふと頭をよぎる。
複雑な技術も、凝った味付けもない。
ただ具材を重ねて、火にかけるだけ。
けれど、この単調な作業に没頭している間だけは、何も考えずにいられる。
無心になれるという点では、これもまた立派な料理の時間なのかもしれない。

料理という、心を整える時間

白和えの裏漉しも、ミルフィーユ鍋の重ね作業も、どちらも効率とは対極にある時間の使い方だろう。
急げば、もっと早く終えられたはずの作業。
けれど、あえて手間をかけることで、料理そのものだけでなく、自分自身の内側までもが整っていくような感覚がある。
日々の暮らしの中には、時短や効率化を取り入れようと思う瞬間がたくさんある。
けれどキッチンに立つ時間だけは、少しだけ手間をかけてもいいのでは?と思うようになってきてる
裏漉しの手間、具材を重ねる繰り返し。
そうした地味な作業の一つひとつが、日常の中に溜まっていくノイズを、静かに洗い流してくれているような。
リベンジを果たした白和えの味を、もう一度思い出す。
丁寧に手をかけた分だけ、確かに美味しくなっていた。
料理という行為が教えてくれるのは、味だけではなく、手間そのものが持つ価値なのだと、あらためて思う夜。


