
サッカーワールドカップの話題が、あちこちで流れている。
「歴史的引き分け」に、乗り切れない
ニュースを開けば「歴史的引き分け」「勝点1を獲得」。
SNSには「ニッポン頑張れ」「感動をありがとう」。
渋谷では深夜に人が集まって騒いでいる映像が流れる。
それが毎回、同じパターンで繰り返される。
この雰囲気に、なかなか乗り切れない自分がいる。
嫌いなわけではない。スポーツが好きじゃないわけでもない。
ただ、「国を背負って戦う選手たちに感動する」という感情の型に、自動的に乗ることへの違和感がある。
「ニッポン!」という掛け声の外に出ると

ワールドカップの期間中、テレビは特定の感情を視聴者に求めてくる。
一緒に応援する。一緒に悔しがる。一緒に奇跡を信じる。
その共同体験のムードの中にいると、乗れない自分がどこかおかしいような気がしてくる。
でも乗ろうとしても、乗れない。感情が動かない。
それはわたしが冷たいのではなく、単純に「共鳴するものがない」ということだと思っている。
代わりに、NBAのプレーオフを観ていた。
日本代表の試合よりも、NBAのプレーオフの方が、わたしにはずっとハラハラする。
勝てばいいというものではなく、どんな質のプレーで勝つかに興味がある。
美しいプレーで負けることが、雑なプレーで勝つことより好ましく見えることがある。
そういう観方を、世間の熱狂の中でするのは難しい。静かに一人で観る方が、集中できる。
世間の熱狂と自分の感性が合わないことに、以前は後ろめたさがあった。
でも今は、そうは思わない。感じ方は人それぞれでいい。
大事なのは、自分が本当に動かされるものを知っていることだ。
それを知っている人は、どんな媒体でも豊かに楽しめると思っている。自分の感性を信じること。
それこそがエンタメをずっと長く楽しみ続けるための、一番の基盤だ。
技の美しさだけを、追いかける
NBAには、愛国心で応援する理由がない。
誰のファンになるかは自分で決められるし、特定のチームに肩入れしなくてもいい。
ただ、コートの上で起きている現象だけを観ていればいい。
そこには、人間の技術の極致がある。信じられない角度からのシュートが決まる瞬間。
ディフェンダーを抜くためのフェイクの精度。クラッチタイムの、プレッシャーの中での判断の速さ。
それらを観ている間、「この選手の国籍は何か」「この試合の意味は何か」ということは、どうでもよくなる。
ただ、技の美しさだけを追いかけている。
そういうスポーツとの付き合い方が、わたしには合っている。
自分の審美眼で、静かに観る

世間の熱狂に同調することが苦手なのは、昔からだ。
マジョリティが面白いと言っているものが、自分には面白くないことがある。
逆に、誰も話題にしていないものに、深くはまることがある。
それはひねくれているわけではなく、ただ感性の向き先が少し違うのだと思う。
スポーツも、エンタメも、その向き先に従って選んでいきたい。
流されないことは目的ではなく、結果だ。自分が本当に面白いと思えるものを静かに観ること。
それだけで、スポーツは十分に豊かな体験になる。
世間の熱狂を横目に、一人でNBAの試合を観ている時間は、孤独ではない。むしろ静かに豊かだ。
共鳴するものがある場所に、ちゃんといる感覚がある。
それはマイノリティな楽しみ方かもしれないけれど、自分の感性に正直でいることの方が、長い目で見ると豊かな体験を作ってくれると思っている。
好きなものを好きと言える自分でいることが、エンタメを楽しむための一番の条件だ。


