AIの時代に、あえて「誰かの日記」を読みに行く理由

あえて誰かの日記を読むということが楽しみなんだなと最近は思う

目次

検索すれば、答えは出る

知りたいことがあれば、調べればいい。


レシピも、薬の副作用も、植物の育て方も、ドラマのあらすじも。

検索すれば、精度の高い情報が手に入る。AIに聞けば、もっと速く、もっと整理された答えが返ってくる。


情報を得ることは、かつてないほど簡単になった。


でもわたしは最近、個人サイトやブログを読み歩くことが増えている。

誰かが書いた日記を、静かにたどっている。

それは効率的な情報収集では、まったくない。

目的もなく、気が向いたサイトのリンクをたどって、見知らぬ人の日常に少しだけ立ち寄る。

そのまま数時間が経っていることもある。でも後悔はしない。

むしろ、不思議な充足感がある。

情報を消費したわけではないのに、何かをもらった気がする。

体温を、分けてもらった感覚。

それが個人サイトの読み歩きの、独特の豊かさだ。

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「人間味」という、非効率な豊かさ

個人サイトには、整理されていない言葉がある。


「昨日こんなことがあって、うまく言葉にできないけれど、なんとなくここに書いておきたかった」という種類の文章。

検索では引っかからない。AIでは生成できない。

その人がその日、その時間に感じたことだけが、そこにある。


そういう文章に出会うと、「生きている人がいる」という実感がある。


完成された情報ではなく、迷っている誰か。うまくやれていない誰か。

それでも書き続けている誰か。

その姿が、画面の向こうに透けて見えるとき、わたしは静かに励まされる。

情報の海ではなく、誰かのアトリエを訪ねる

インターネットを「海」に例えるなら、大手メディアやSNSは波が高い。


情報が速く、量が多く、刺激的で、すぐに流れていく。そこを泳ぐことは、時にひどく疲れる。


個人サイトは違う。静かな入り江みたいなものだと思う。

誰かが手をかけて作った場所。

毎日更新されなくてもいい。バズらなくてもいい。

ただ、その人の声がそこにあって、訪ねれば聴こえてくる。


わたしがこの個人サイトを作ったのも、そういう場所にしたかったからだ。

誰かが検索で偶然辿り着いて、読んで、「自分と似たことを考えている人がいる」と思ってくれたら、それで十分だ。

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AIにできないことが、ここにある

AIは優秀だ。情報を集め、整理し、わかりやすく提示してくれる。
でもAIには、「昨日失敗した」という体験がない。

「6ヶ月ぶりに検査に行って、ほっとした」という感触がない。

「パンが焼けた匂いで、少し元気になった」という記憶がない。


個人の文章には、その人の時間が積み重なっている。

失敗も、回復も、日常の些細なことも、全部ひっくるめた「生活の重さ」がある。
それは検索では手に入らない。


AIの時代に、あえて「誰かの日記」を読みに行くのは、その重さに触れたいからだ。

情報ではなく、体温を求めて。効率の外に出ることで、見えてくるものがある。

それがインターネットの、今もわたしが好きな部分だ。

情報の波に流されるのではなく、静かな入り江を選ぶ。

その選択を、これからも丁寧に続けていきたい。

それがわたしが当サイトを続けていく理由でもある。


最近、お気に入りの個人サイトがいくつかある。更新頻度はまちまちで、デザインも古いものもある。

でも、そのサイトに行くたびに「ここに来た」という感覚がある。

誰かの部屋を訪ねているようだ、と感じる。


このサイトも、誰かにとってそういう場所でありたい。

検索で辿り着いて、ひとつ読んで、また戻ってきてくれる場所。

情報を届けるのではなく、温度を共有する場所。

それを作り続けることが、わたしにとってのインターネットとの付き合い方だ。

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