
誕生日だった。
うれしさと数

朝から通知が届いていた。メッセージ、スタンプ、短い言葉たち。
画面を開くたびに、また誰かの名前がそこにある。
ありがたい、と思った。それは本当のことで、嘘ではない。
遠くに住む友人の名前を見つけたとき、あたたかい気持ちになった。
数年ぶりに連絡をくれた人の言葉に、すこし目が潤んだ。
繋がりというものは、やはり大切だと思う。
でも昼頃、ふと気がつくと、スマートフォンを何度も確認していた。
新しい通知があるかどうか。返信したか、見落としていないか。
特に理由はないのに、画面を開いて、閉じて、また開いて。
その繰り返しの中で、なんとなく落ち着かない自分がいた。
「おめでとう」を受け取るほどに、その言葉の数を数えてしまっている自分がいた。
これはいったい、誰のための誕生日なのだろう、と思った。

「おめでとう」を受け取るたびに、少しずつ消費されていくものがある気がした。

言葉そのものは温かい。でも何十もの通知を処理し続けることは、どこかで作業に近くなる。
返信の文面を考え、絵文字を選び、全員に誠実に応えようとする。
そうしているうちに、静かに自分の誕生日を感じる時間が、どこかへ行ってしまう。
自分が主役のはずの一日なのに、スマートフォンの画面に主導権を渡したまま、夕方になっていた。
SNSという場所は、温かさと喧騒が同じ画面に混在している。
誰かの「おめでとう」を見るために画面を開けば、それ以外のものも一緒に流れ込んでくる。
誰かの近況、誰かの意見、ニュース、広告、まとめ記事。
受け取りたいものだけを受け取ることが、構造として難しくできている。
流量を自分でコントロールするには、意識的な選択が必要だ。
でも「おめでとう」を待ちながら境界線を引くのは、思ったより難しかった。
結局その日の夜、スマートフォンを引き出しの中にしまった。
翌朝、改めてゆっくりと読んだメッセージたちは、昨日より少し静かに、ちゃんと届いた気がした。
一つ一つの言葉が、ちゃんとその人の顔を連れてきた。
同じ言葉なのに、受け取る状態によって、その質がこんなにも変わる。
繋がりを大切にすることと、自分の平穏を守ることは、矛盾しない。
ただその両立には、小さな工夫が要る。
通知を確認する時間を決めること。
返信は翌日でもいいと自分に許可すること。
「おめでとう」はその言葉を送ってくれた人との温かさであって、通知の数ではないことを、折に触れて思い出すこと。

意識的に境界線を引くことで、繋がりはもっと豊かになる。
すべての通知にリアルタイムで応えなくていい。
自分のペースで受け取り、自分のペースで返す。
それはそっけなさではなく、誠実さの別の形だと、今はそう思っている。
SNSというのは、使い方次第で全く異なる場所になる。
波のように押し寄せてくる情報の中に飲み込まれれば、消耗するだけの場所になる。
でも距離の取り方を自分で決めれば、本当に大切な人の声だけが届いてくる、静かな窓になる。
どちらを選ぶかは、毎日の小さな選択の積み重ねだ。
誕生日のたびにそれを思い出す、良い機会になっている。
誕生日が終わる頃、メッセージをくれた全員への返信を書き終えた。
一人ひとりの顔を思い浮かべながら、すこし言葉を選んだ。急がなかった。
それだけで、受け取る側にも何かが届く気がした。
スマートフォンを引き出しにしまったのは、正解だったと思う。
来年もきっと同じようなことを感じるのだろう。
そのたびに引き出しにしまうことを選べれば、それでいい。
境界線は一度引いたら終わりではなく、毎日、少しずつ、引き直していくものだから。
繋がりを大切にしながら、自分の静けさも守る。



