
ショートカットを、消してみる
ある日、ふと思い立って、ブラウザのブックマークバーから、いくつかのアイコンを削除した。
note。
X。
いつも無意識のうちに指が伸びてしまう、あのショートカットたちだ。
たった数個のアイコンを消すだけの、ささやかな行動。
けれど、それを実行するまでに、思っていた以上の踏ん切りが必要だった。
このショートカットがなくなったら、自分は本当に、そのサイトを見なくなるのだろうか。
半信半疑のまま、試してみることにした。

検索するという、静かな自傷

正直に告白すると、これまでのわたしには、一つの癖があった。
見なくてもいいと分かっているのに、ある発信者の名前を、ふと検索してしまう癖だ。
その人は、自由な生き方を体現しているように見える発信を続けていた。
読むたびに、憧れにも似た感情と、同時にモヤモヤとした感情が、同時に湧き上がってくる。
分かっているのに、また検索してしまう。
そして、また同じようにモヤモヤする。
この繰り返しは、今にして思えば、一種の自傷行為だったのかもしれない。
痛みを伴うと分かっていながら、その痛みを確認せずにはいられない。
刺激を求める脳の仕組みが、わたし自身の意志よりも強く働いていたのだと思う。
ショートカットという、たった一つの入り口をなくすこと。
それだけで、この衝動的な確認作業に、小さなブレーキをかけられるのではないか。
そんな期待を込めて、小さな実験である。

一週間で、確かに変わったこと
結果から言えば、この小さな実験は、想像以上の効果をもたらしてくれた。
ショートカットがないというだけで、わざわざURLを打ち込んだり、検索窓に名前を打ち込んだりする手間が生まれる。
そのわずかな手間こそが、衝動にブレーキをかける、ちょうどいい抵抗になってくれた。
一日目、二日目は、何度か指が迷った。
いつもの場所に、いつものアイコンがないことに、身体がまだ戸惑っていた。
けれど三日目を過ぎたあたりから、その戸惑いは少しずつ薄れていった。
代わりに生まれたのは、思いがけない静けさだった。
他人の発信を確認する時間がなくなった分、そこに空いた余白を、何で埋めればいいのか分からず、最初は戸惑う。
けれどその空白は、次第に、自分自身の内側に意識を向けるための時間へと変わっていった。
覗き見から、自分の余白へ

これまでのわたしは、他人の人生を、無意識のうちに覗き見していたのだと思う。
誰かの成功、誰かの自由な暮らしぶり。
そうしたものを確認しては、羨ましさとモヤモヤを、同時に抱え込んでいた。
けれどその時間は、結局のところ、自分自身のためには何一つ役立っていなかった。
他人の人生を眺めることに費やしていた時間を、少しずつ、自分自身の内側に向ける時間へと変えていく。
今日、自分は何を感じたか。
今、本当は何をしたいのか。
そうした問いに向き合う余白が、ようやく生まれ始めている。
この変化は、決して小さなものではない

これからも、余白を守り続けたい

ショートカットを消すという行為は、ささやかで、地味な一歩だ。
けれどその一歩が、長らく自分を苦しめていた渦から、静かに距離を置くきっかけになってくれた。
これから先も、ふとした瞬間に、また検索したいという衝動が湧き上がることはあるだろう。
そのときは、また立ち止まって、自分に問いかけたい。
これは、本当に自分のためになる時間だろうか、と。
他人の人生を覗き見る時間を、少しずつ、自分自身のための余白へと変えていく。
その積み重ねを、これからも大切にしていきたいね。


