
壊れる前に逃げること。
壊れるほど頑張らなきゃいけない居場所は、じぶんの居場所じゃないってことよね
あの頃を、冷静に振り返る
しばらく経った今だからこそ、あの頃のことを、少し落ち着いた目で振り返ることができる。
当時は、目の前のことに必死で、何が起きているのかを、俯瞰して見る余裕などなかった。
けれど時間を置いた今、あらためて考えてみると、一つのことがはっきりと見えてくる。
あのとき心と身体を崩してしまった原因は、決して自分の弱さではなかった。ってことに。
明らかに、環境そのものが、自分には合っていなかったのだ。
異常だと感じるほどの職場の空気。
うまく噛み合わない人間関係。
その中で、我慢を重ね、誤魔化しながら、なんとかやり過ごそうとしていた。
けれど、心がどれだけ平静を装おうとしても、身体は正直だった。
やがて、身体そのものが悲鳴を上げ、拒否反応という形で、はっきりとした答えを示してきた。

根性ではどうにもならない、適応の限界
「もっと頑張れば、なんとかなる」
そう自分に言い聞かせていた時期があった。
真面目な性格ゆえに、環境に馴染めないことを、自分の努力不足のように感じてしまっていたのだと思う。
けれど、今ならはっきりと分かる。
環境に適応できるかどうかというのは、根性や努力だけでカバーできる範囲を、時に大きく超えてしまうものなのだ、と。
どれだけ意志の力を振り絞っても、そもそもの相性が合わなければ、うまくいかないことがある。
これは、能力の問題でも、忍耐力の問題でもない。
ただ単純に、「合わないものは合わない」という、それだけの話なのだと思う。
割れてしまう前に

自分の中で、一つのイメージが浮かんでいる。
形の違う、二つのパズルのピース。
無理やり押し込もうとすれば、一時的にはまるでハマっているように見えるかもしれない。
けれど、その状態を保ち続けようとすればするほど、どこかに歪みが蓄積していく。
そしてある日、限界を超えたとき、どちらかのピースが、静かに割れてしまう。
あのときのわたしは、まさにその状態だったのだと思う。
合わない環境に、自分という形を無理やり押し込み続けた結果、心と身体という大切なピースの方が、先に割れてしまった。
環境を変えるべきだったのに、自分を変えようと必死になっていた。
その順番の間違いに、当時は気づくことができなかった。
終わり時を、すんなりと受け入れる
今振り返って、一番反省しているのは、無理に粘りすぎてしまったことだ。
もう少し早い段階で、「これは、終わりにしていい状況なんだ」と、すんなり認めることができていたら。
そうすれば、あそこまで大きく身体を壊すことは、なかったのかもしれない。
けれど、当時のわたしには、その判断ができなかった。
途中で投げ出すことに対する、漠然とした罪悪感。
もう少し頑張れば、状況が好転するかもしれないという、根拠のない期待。
そうしたものが、判断を鈍らせていたのだと思う。
今なら、少しだけ違う考え方ができる。
合わない場所に、無理に自分を合わせ続ける必要はない。
終わりを認めることは、逃げでも失敗でもなく、ただの適切な判断なのだ、と。

これからのために、覚えておきたいこと

この経験から学んだことを、これから先の人生でも、大切に覚えておきたいと思う。
身体が発するサインを、軽視しないこと。
拒否反応という形で示される合図は、決して気のせいなどではなく、非常に的確な警告だということ。
そして何より、「合わないものは合わない」と、素直に認める勇気を持つこと。
無理にピースを押し込み続ける必要はない。
割れてしまう前に、静かに手を止める。
その判断力を、これからは大切に育てていきたいと思う。


