
インターネットや溢れかえる情報から距離を取りたいなと最近思う
正直、どうでもいい情報が多すぎて、もう疲れちゃうんだよね
憧れていた、情報の空白地帯
以前から、ある種の場所に憧れを抱いていた。
スマートフォンをロッカーに預けてから入店するカフェ。
Wi-Fiも充電器も、あえて置いていない書店。
そうした「デジタルデトックスに特化した空間」の存在を知ってから、都会のどこかにあるはずのその場所を、密かに探し求めるようになった。
常に何かに繋がっていることが当たり前になったこの時代に、あえて繋がりを断つことを前提とした空間。
そんな場所が、どこかにひっそりと存在しているという事実だけで、なんだか救われるような気持ちになる。
情報という濁流の中で暮らすわたしたちにとって、そうした空白地帯は、もはや聖地と呼んでも大げさではないのかもしれない。

「強制的な不便さ」という発見

そんな聖地を探していたある日、思いがけない場所で、その片鱗に出会うことになった。
初めて足を踏み入れたコインランドリーだった。
洗濯機に衣類を詰め込み、アプリで決済を終えると、あとはただ機械が仕事を終えるのを待つしかない。
途中で操作を早めることもできなければ、中断することもできない。
この、どうしようもない不便さに、わたしは思いがけず心を掴まれた。
普段の生活では、不便さというものは、できる限り排除すべき対象として扱われている。
もっと速く、もっと簡単に、もっと快適に。
そうした価値観の中で暮らしていると、あえて不便を選ぶという発想自体が、なかなか浮かんでこない。
けれどコインランドリーという場所は、その不便さを、いわば強制的に受け入れさせてくれる。
スマートフォンを弄る隙もないほどの、手持ち無沙汰な時間。
その時間こそが、探し求めていたデジタルデトックスの正体だったのかもしれない、と気づかされた。

不便さが生み出す、静かな余白

デジタルデトックスカフェのような、明確な看板を掲げた場所でなくとも構わない。
日常のあちこちに、こうした「強制的な不便さ」を持つ場所は、案外潜んでいるのではないだろうか。
電波の届きにくい地下の食堂。
順番待ちしかできない小さな診療所の待合室。
そうした場所には共通して、情報から強制的に切り離される、小さな空白の時間が存在している。
普段なら苛立ちの対象にしかならないような不便さが、視点を変えれば、贅沢な余白へと姿を変える。
この逆転の発想こそが、今のわたしには必要だったのだと思う。
便利さを追い求め続けた先に待っているのは、常に何かに接続されているという、目に見えない疲労かもしれない。
だとすれば、あえて不便な場所に、自ら足を運んでみる勇気も、悪くない選択なのだと思う。

聖地は、探せばそこにある

デジタルデトックスカフェも、電子機器を持ち込めない書店も、いつか実際に訪れてみたいと思っている。
けれどその一方で、聖地というものは、案外身近な場所にも隠れているのかもしれないとも今は思う。
コインランドリーの、あの何もできない四十分間のように。
不便であることを厭わず、むしろその不便さを求めて、あえて足を踏み入れてみる。
そうした小さな冒険を重ねながら、都会の中に散らばる情報の空白地帯を、これからも一つずつ見つけていけたら面白いかも。
繋がり続けることに疲れたときは、あえて繋がれない場所へ。
そんな逆説的な避難の仕方が、この時代を生き抜くための、静かな生き方なのかもね。


