
届いた、三つの同じ質問
ある日を境に、サイトの問い合わせフォームに、似たような質問が続けて届くようになった。
「このイラストは、手描きですか。それとも生成AIですか?」
一通目が届いたときは、単純な好奇心からの質問だと思っていた。
けれど二通目、三通目と重なるうちに、これは偶然ではなく、一つの傾向なのだと気づかされた。
正直に答えれば、当サイト内のイラストの多くは、生成AIサービスを活用している。
記事の内容や、その日綴った言葉の雰囲気に合わせて、その都度イメージを組み立てながら作成している。
これまで、その制作過程をサイト内に明記してこなかった。
質問をくれた人たちの言葉の端々からは、単なる好奇心だけでなく、もう少し踏み込んだ感情が透けて見えた。
「もし生成AIなら、明記してほしい」
「本当に自分で撮影したものなのか?」
そこにあったのは、確認したいという気持ちと同時に、少しの落胆や、疑いの気配を感じた。

「手仕事」に宿ると信じられている、何か

なぜ人は、手描きか生成AIかを、これほど気にするのだろうか?
考えてみれば、答えは単純なところにあるのかもしれない。
わたしたちは長い間、クオリティの高いものの背後には、必ず誰かの手間と時間があると信じてきた。
丁寧に描かれた線には、その人が費やした時間の重みが宿っている。
丁寧に撮られた写真には、その人がその場に立ち、シャッターを切った瞬間の実感が宿っている。
そうした「手間の痕跡」こそが、作品の価値を裏付けるものだと、どこかで信じてきたのだと思う。
生成AIは、その前提を静かに崩してしまう。
指示を与えれば、数十秒で、驚くほど完成度の高い一枚が出来上がる。
そこには、手を動かした時間の蓄積という、これまで信頼の根拠にしてきたものが存在しない。
だからこそ、AIで作られたと知った瞬間、「手抜きをされた」という感覚に近いものが、読み手の中に生まれてしまうのだろう。
これは、AIそのものへの拒絶というよりも、「クオリティの裏には手間があるはずだ」という、長年培われてきた信頼の型が揺さぶられることへの、戸惑いなのかもしれない。
隠すことが、信頼を損なうということ
届いた質問に向き合いながら、あらためて考えた。
生成AIを使うこと自体が、問題なのだろうか。
それとも、それを黙って使い続けてきたことが、問題なのだろうか。
考えれば考えるほど、後者なのだという結論に至った。
道具としてAIを使うこと自体は、罪ではない。(と思う)
けれど、その事実を隠したまま発信を続けることは、いつか必ず、読み手との間に静かな亀裂を生む。
今回のように、誰かが確認のために問い合わせをくれるのは、まだ良心的なケースだ。
もし誰も何も言わず、ただ静かにサイトを去っていったとしたら。
その方がずっと、取り返しのつかないことだったのかもしれない。
隠すことは、一時的には楽な選択に見える。
けれど長い目で見れば、隠していたという事実が明るみに出たときの落胆の方が、ずっと大きな代償を払うことになる。

明記するという、小さな誠実さ
そう気づいてから、サイト内に、イラストの制作過程についての説明を明記することにしている。
生成AIを利用していること。
記事の雰囲気に合わせて、その都度組み立てていること。
写真については、実際に自分で撮影したものを使っていること。
たったこれだけのことなのに、書き終えたとき、不思議と肩の荷が下りたような感覚がある。
隠していたことの重さに、自分自身、気づいていなかったのかもしれない。
(隠していたというよりも、これまで明記しそびれていたという感覚が近いのだけど)
道具が何であるかよりも、その道具をどう扱い、どう向き合っているかを、正直に見せること。
それこそが、これからの時代において、書き手と読み手のあいだに橋をかける、唯一の方法なのだと思う。

境界線の、本当の在り処

AIか、手仕事か。
その二択で語られがちなこの話題だが、本当の境界線は、そこにはないのかもしれない。
問われているのは、道具の種類ではなく、向き合い方そのものなのかも。
隠さず、誤魔化さず、自分がどう作っているかを、正直に開示すること。
その姿勢さえ守り続けられれば、道具がAIであっても、手描きであっても、そこに宿る誠実さは、きっと読み手に伝わっていくんじゃないかな。
これからも、この小さなアトリエで、隠さず、丁寧に、言葉と画像を紡いでいきたいと思う。


