
通知が、少し怖くなった
問い合わせフォームに新着の通知が届くたびに、胸の奥がすっとこわばるようになった。
以前はそうではなかったんだけどね。
誰かがサイトを読んでくれて、何かを感じて、言葉を送ってくれる。
それは本来、とても嬉しい出来事のはずだった。
けれどここ最近、その通知を見るたびに、身構えてしまう自分がいる。
今度はどんな内容だろう。
どう返信すればいいだろう。
そんな思考が、頭の中を占領していく。
一つひとつの問い合わせは、決して悪意あるものばかりではない。
むしろ、丁寧な言葉で綴られたものがほとんどだった。
それでも、返信の文面を考え、言葉を選び、送信するという一連の作業が、思っていた以上に、心のエネルギーを削っていくもんなんですよね
消耗の正体

文章を書くという行為には、わりと体力を使う。(気力も)
けれど、その後に発生するやり取りには、また別の消耗がある。
相手の言葉の裏にある意図を推し量り、誤解を招かないよう慎重に言葉を選び、返信を送ったあとも「あの言い方でよかっただろうか?」と、何度も反芻してしまう。
この繰り返しが、静かに、けれど確実に、心をすり減らしていく。
書くことは好きだ。
けれど、書いたあとに発生するコミュニケーションの重みまでは、想定していなかったのかもしれない。
自分の性格が、他人の反応に振り回されやすいことも、よく分かっている。
真面目で、責任感が強く、平穏を望む性分。
そういう自分にとって、開かれた窓口をいくつも持ち続けることは、思いのほか大きな負荷だったのだと、今になって思う。

閉じるという、もう一つの選択肢
コメント欄を閉じる。
DM機能を閉じる。
問い合わせフォームも、いっそのこと外してしまう。
そんな考えが、ふと頭をよぎるようになった。
以前なら、そんな選択は「読者との繋がりを拒絶する、冷たい行為」のように感じていたかもしれない。
けれど今は、少し違う見方ができるようになった。
窓口を閉じるということは、拒絶ではなく、自分を守るための境界線を引く行為なのかもしれない、と。
誰かの反応を気にせず、ただ自分の内側から出てくる言葉を、静かに置いていくだけの場所。
そういう「壁打ち」のような運営スタイルにも、確かな価値があるように思えてくる。
壁に向かってボールを打つとき、そこに返ってくる反応を気にする必要はない。
ただ自分のフォームを整え、自分のリズムで打ち続けることだけに集中できる。
書くという行為も、本来はそういうものだったのではないだろうか。

繋がりを手放して、得られるもの
窓口を閉じれば、失うものもあるだろう。
今回のように、誠実な指摘をくれる読者との出会いも、なくなってしまうかもしれない。
温かい感想が届く機会も、同じように失われる。
けれど、それと引き換えに得られるものもある。
通知に怯えることなく、返信の文面を考えることに時間を割かれることなく、ただ純粋に、書くことだけに意識を向けられる時間。
その静けさは、今のわたしにとって、何ものにも代えがたい価値があるように思える。
誰かと繋がることだけが、発信の意味ではない。
自分の内側にあるものを、ただ丁寧に言葉にしていく。
それだけで十分なんじゃないのか?と思ったりしたり

それでも、開いている窓が一つあればいい

完全に窓口を閉じてしまうことに、まだ少し迷いもある。
すべてを閉ざしてしまえば、今度は別の孤独が生まれるかもしれない、という予感もあるから。
だからこそ、すべてを一気に閉じるのではなく、少しずつ、自分にとって心地よいバランスを探っていきたいと思う。
大きく開け放していた窓を、まずは半分だけ閉じてみる。
そうして生まれた静けさの中で、もう一度、書くことそのものに向き合ってみたい。
壁打ちのような静かな時間も、時には人と繋がる窓も。
そのどちらも手放さず、自分にとってちょうどいい塩梅を、これからゆっくりと見つけていきたいな。


