情報の食事制限|心を守るための、朝晩30分というルール

情報のインプットは意識的に制限するようにしてるんだよね。

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開けば開くほど、重くなっていく画面

ニュースアプリを開くたびに、胸の奥が少しずつ重たくなっていく感覚がある。

災害の報道。

痛ましい事件の続報。

先の見えない社会の不穏な空気。

そうした情報が、次から次へと画面いっぱいに流れてくる。

知っておくべきことだとは思う。

けれど、知れば知るほど、心の奥に、じわりと重たい澱のようなものが積もっていく。

かつてのわたしは、そうした情報を、際限なく追いかけてしまうタイプだった。

一つの記事を読み終えれば、また次の記事へ。

関連ニュースを辿り、コメント欄まで目を通し、気づけば何時間も、画面に向かい続けていることもあった。

その結果、待っていたのは、心の疲弊だった。

たどり着いた、一つのマイルール

長い時間をかけて、ようやく自分なりの防御策にたどり着いた。

ニュースを見るのは、朝と夜、それぞれ三十分だけ。

それ以外の時間は、意識的にニュースから距離を置く。

大切な情報を見逃してしまうのではないか。

社会の動きに、取り残されてしまうのではないか。

最初の頃は、そんな心配が、頭をよぎった。

けれど実際にこのルールを続けてみると、そうした不安は、思っていたほど問題にはならなかった。

本当に重要な情報は、この三十分という枠の中でも、きちんと拾うことができる。

むしろ、際限なく情報を追いかけていたときよりも、一つひとつのニュースと、丁寧に向き合えるようになった気さえする。

あとは、心が軽くなった気もする

共感疲労という、見えない消耗

なぜ、これほどまでにニュースを見ることが、心を疲れさせるのか。

考えてみれば、そこには「共感疲労」と呼ばれる現象が、深く関わっているのだと思う。

遠い場所で起きた出来事であっても、そこに映る人々の痛みや悲しみに、わたしたちの心は自然と共鳴してしまう。

その共鳴そのものは、人として自然な反応だ。

けれど、その共鳴を、際限なく浴び続けてしまえば、心はいずれ、悲鳴を上げ始める。

自分にできることは限られているのに、次から次へと押し寄せる痛みの情報に、ただ晒され続ける。

その状態は、決して健全とは言えない。

情報を知ることと、その情報に押し潰されることは、まったく別の話なのだ

見ないことを、選ぶ勇気

「見ないようにする」という選択には、時に罪悪感が伴う。

社会に対して、無関心なのではないか。

そんな後ろめたさが、頭をよぎることもある。

けれど、無関心であることと、自分の心を守るために距離を置くことは、まったく異なる行為だと思う。

情報の蛇口を、開けっぱなしにしておく必要はないし。

必要な分だけ、意図的に、自分の手で開け閉めすればいい。

そのくらいの主体性を持つことが、これからの時代を生きる上で、とても大切な技術になっていくのではないだろうか。

朝の三十分で、前日の大きな動きを把握する。

夜の三十分で、当日の出来事を整理する。

そのあいだの時間は、ニュースから離れ、自分自身の暮らしに、意識を向ける。

このリズムが、わたしにとって十分な情報量である

情報を選び取ることも、暮らしの一部

情報を遮断することは、悪いことではないんじゃないかな。

限られた心のエネルギーを、本当に大切なことのために使うための選択だとも思える

朝晩三十分というこの小さなルールが、これからも、わたしの心の平穏を守り続けてくれることを願う。

何を見るか、何を見ないか。

その選択を、これからも自分自身の手で、丁寧に続けていきたいと思う。

最近じゃ、インターネットと接続しない時間も意識的に設けないといけない時代だよね

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