
朝から始まる、静かな仕込み
朝、豚肉の塊を鍋に沈めた。
ゆで豚を作るときは、いつも朝から仕込むことにしている。
じっくりと時間をかけて茹でることで、余分な脂が抜け、驚くほどさっぱりとした仕上がりになる。
コトコトと鍋が静かな音を立てる間、他の家事をこなしながら、時折その様子を覗きにいく。
湯気の向こうに見える肉の色が、少しずつ変わっていく様子を眺めるのが、なんとなく好きだ。
急かす必要はない。
ただ、時間をかけてじっくりと煮込む

タレを選ぶ、小さな楽しみ

茹で上がった豚肉を薄く切り分け、サンチュに包んで食べるのが、我が家の定番。
このとき、どのタレで食べるかを選ぶ時間が、地味に楽しい。
特製のタレをさっと絡めることもあれば、味噌にコチュジャンを混ぜ合わせた、少し濃厚な味わいを選ぶこともある。
その日の気分によって、味の輪郭を変えられるのが、この料理の面白いところ。
サンチュの上に、薄切りの豚肉を乗せ、選んだタレを少し添えて、くるりと包む。
口に運ぶと、脂の旨味と野菜のみずみずしさ、そしてタレの風味が、絶妙に絡み合う。
シンプルな組み合わせなのに、飽きることがない。
たまらなく旨い!

茹で汁も使い切る

ゆで豚を作るたびに、大切にしていることがある。
それは、茹で汁を決して捨てないこと。
豚肉の旨味がじんわりと溶け出したその汁は、それだけで立派な出汁になる。
ネギや溶き卵、あるいは冷蔵庫に残っていた野菜を加えれば、あっという間に、身体に染みるようなスープが出来上がる。
一見すると、ただの茹で汁だ。
一つの鍋から、メインの料理と、もう一品のスープが同時に生まれる。
この無駄のなさに、いつも小さな満足感を感じる
使い切ることが、心を整えてくれる
一つの素材を、余すところなく使い切る。
その行為には、料理としての合理性以上の意味があるように感じている。
慌ただしい日々の中では、物事を最後まで丁寧に見届ける余裕を、つい失いがちになる。
食材も、時間も、感情も、中途半端なまま放置してしまうことが増えていくような。
けれど、茹で汁一つをスープへと生まれ変わらせる作業は、そうした雑な時間とは正反対だ。
最後の一滴まで、意味のあるものへと変えていく。
その丁寧さが、台所という小さな場所の中で、静かに形を整えていくような。
不思議なもので、この一連の作業を終えたあとは、心も少しだけ整っているような感覚がある。
素材を無駄なく使い切ったという事実が、荒れがちな心の中にも、小さな秩序をもたらしてくれたのかもしれない。

地味だけど、確かな幸せ

ゆで豚も、そこから生まれるスープも、決して華やかな料理ではない。
けれど、朝から時間をかけて向き合い、最後まで丁寧に使い切ったという実感は、何にもにも代えがたい充足感がある
派手さのない、地味な作業の積み重ね。
その中にこそ、確かな幸せが宿っているのだと、鍋を洗いながら、あらためて思う。


